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蓮実 重彦 映画

東出昌大が主演を務める、9月1日公開の映画『寝ても覚めても』に、蓮實重彦ら各界の著名人がコメントを寄せた。 芥川賞作家・柴崎友香による. 年2月22日 12:36 131. net 蓮實重彦「伊丹万作も大したことない監督でしたが十三さんもでしたね。本当に映画的才能がない. ホーム > 映画ニュース > 年6月27日 > 蓮実重彦、坂本龍一が絶賛 メキシコの泉の神秘を追うドキュメンタリー「セノーテ」予告編 蓮実 重彦 映画 映画崩壊前夜 - 蓮実重彦のページをご覧の皆様へ HMV&BOOKS onlineは、本・CD・DVD・ブルーレイはもちろん、各種グッズやアクセサリーまで通販ができるオンラインショップです。 Pontaポイントもつかえて、お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!. 蓮実 重彦 映画 蓮実 重彦 映画 映画芸術☆特集 混濁するアメリカ1976の映画思想*種村季弘・鈴木清順・蓮実重彦・長部日出雄ほか 1976. 映画という複製技術に依拠した芸術形式の誕生は、限定された空間(共同体)の記憶から自由になる、つまりは説話論的な物語に依拠することなく、純粋な時間そのものを経験することが可能になったことを意味している。純粋な時間とは何か。1秒間に24コマの知覚体験が断続的に現れては破棄されていく「瞬間の運動」である。ゆえに映画は〈いま〉を更新し続けるモダニティの時間を知覚するメディアなのだと言うことも出来るだろう。すなわち、映画とともに空間の記憶―アウラ―から解放された時代において、時間が無限に更新/蓄積されていく終わりなき「瞬間の運動」がはじまるということなのだ。 だが、一体、筆者は何を言っているのだろう。正直なところ、筆者は今までそのように映画を見たことはない。いや、それよりも、そんな瞬間の運動を捉えきることが出来る眼球などあるのだろうか。ベンヤミンならば、この「瞬間の運動」は肉眼では捉えることの出来ない、カメラに語りかける「無意識に浸透された空間」を出現させると言うだろう。「ぼくらの駅や工場はこれまで、僕らを絶望的に閉じ込めるもののように見えていた。そこへ映画が出現して、この牢獄のような世界を、高速度撮影というダイナマイトで爆破してしまった」(『複製』175-176)。しかしその「瓦礫のあいだで、平静に冒険旅行を企てる」(176)ことなど出来るのだろうか。90分で129,600コマの瞬間を享受する視覚体験は人間の限界をすでに超えている。ましてやその累積を記憶に留めておくことなど、何をか言わんや。 そして私たちが驚くべきなのは、まさに蓮實重彦という批評家が人間的な視覚のスケールを軽く超えていくはずの「瞬間の運動」そのものと遭遇しようとしたこと、さらには「瞬間の運動」を模倣するエクリチュールでそれと官能的に戯れ記憶してみせたことである。 「正常な瞳は、とても映画など見ていられない」(254)と語る蓮實のアンヴィヴァレントは、肉眼では捉えることの出来ない「瞬間の運動」を字義通りに「見る」ことこそが映画を見ることであるにもかかわらず、それを知覚する瞳を持つことは決して出来ないアポリアによる。「瞳の廃棄。それは、映画にとっての記号論的な真実ともいうべきものだ」(254)という苦しげな叙述は演劇的な記憶が蓄積された空間の束縛を廃棄し、人間のスケールとは無関係な機械的複製の自動運. 3月8日公開のクリント・イーストウッド監督・主演最新作『運び屋』に、各界著名人が絶賛コメントを寄せた。 本作は、イーストウッドが自身の.

なぜならアウラは、人間が、いま、ここにあることと切り離せない」からだ。そして、「これこそ映画の働きである」(『複製』163)。 映画芸術において撮影された俳優は物象化されたマチエールである。演劇の産出する〈現実〉は俳優の身体的な技術から生み出されるのに対して、映画の〈現実〉をつくりだすのは俳優ではなく、フィルムを編集する監督である。そこで俳優はバラバラとなった身振りや顔の断片的な記号に過ぎず、あくまでもモンタージュされた手続きの結果として映画はある。つまり、演劇から映画へと移行するメディア環境は、〈いま・ここ〉に存在するアウラ的身体から、〈いま・ここ〉がバラバラに分解されるモンタージュ的身体へと「人間」の見方を変容させたのである. 蓮実重彦(ハスミシゲヒコ) 1936年、東京生まれ。映画評論・表象文化論・フランス文学者。東京大学教養学部教授・学部長を経て、現在東京大学総長。. 一定期間更新がないため広告を表示しています - - - >. 蓮實重彦を知らない批評家はモグリだ。と言われているのかどうか知らないが、その言説の影響力は絶大なものであったことが、例えば木下千花の「読者であれ学生であれ、少なくとも映画を見る経験そのものに関して、このように強い内面化を伴う影響力を行使した映画批評家が世界映画史上、他に存在しただろうか」(木下千花「女こどもの闘争」,『ユリイカ10月臨時増刊号』,167)との感嘆を隠そうとしない賛辞から十分にうかがい知ることができる。その一方で、蓮實重彦が「演劇を見る経験そのものに関して影響力を行使した」という話は全く聞かない。それはもちろん、映画と小説と野球以外のジャンル全般に当てはまることかもしれないが、一般に演劇と映画は、舞台空間かスクリーンかほどの違いしかないと思われ、どちらにせよ俳優が出てきてドラマが演じられる表象芸術と理解されているのではないだろうか。なにしろ「劇映画」という語彙すら私たちは持ち合わせているのであるから、両者はほとんど混同されていると言ってもいい。 結合双生児のように切っても切れない関係にある演劇と映画だが、蓮實がときに「演劇」の語を書きつけるときは、蓮實の志向する「映画」の水準に比して疑問符を付けざるをえないような、ある意味では無防備に19世紀的な自然主義リアリズムが前提されている。カイ・ムンクの4幕ものの舞台劇を原作にしたカール・Th・ドライヤーの名高い『奇跡』について。 だから次のように言うことが出来る。蓮實重彦は演劇を知らなかった。あるいは蓮實重彦は演劇をあまりにもよく知っていたがゆえに、演劇的知覚からは決して遭遇することのかなわない映画的体験の意味を論じてみせた稀有な人だった、と。ならば裏返して、次のような仮説を立てうるのではないか。 蓮實の批評的視座とは「演劇的」と言いうる体験の位相を抑圧することで成立した。蓮實重彦の功罪とは「演劇」を論じなかったことである。 実際、1936年生まれの蓮實重彦は世代的にもアングラ・小劇場演劇を体験していておかしくない人である。アングラ・小劇場パラダイムに並走した批評家たち―管孝行・佐伯隆幸・大笹芳雄・扇田昭彦など―は40年代初頭生まれであるから、蓮實もほぼ同世代と言っていいくらいだ。そこにはもちろん、60年安保の政治的敗北を代補するアングラ演劇のロマン主義的な「日本人」への回帰を蓮實が嫌ったのではないか、. 蓮實の隠蔽と露出の相互作用を模倣する官能性は、純粋に「映画的なるもの」の臨界点を指し示す。比喩的に言えば、蓮實は映画=「瞬間の運動」そのものになったのである。だとするならば、蓮實は決して「空間」に依拠する演劇的な体験の位相を掴み取ることが出来ない、つまりは「演劇を論じることができない」のは自明の理ではないか。 渡辺守章は、スクリーンに投影された映像のごとく「空間の記憶」を忘却していった新劇の劇団をラディカルに批判したアングラ・小劇場演劇の立役者たる唐十郎の赤テント(1967〜)について次のような言う。 もちろん、それが「映画」のように複製技術時代以後の知覚の条件を引き受けていないと批判することは、常に可能だ。そもそも映画と演劇が完全な二項対立を作ることそれ自体も疑わねばならないことだとした上で、演劇の基底にある「空間の記憶」を奪還しようとしたアングラ・小劇場のパラダイムは蓮實が映画館の〈場所性〉を映画固有の条件としないことと綺麗に対称的だ。 一方、これが記憶を媒介に「肌と肌がふれあう」ような場所で神話的に―例えば私達は土着の日本人だ―集団を組織してしまう演劇の制度的な危うさを露呈させていることも疑い得ない。しかし、だからといって、その集団的感染性に身体を閉じることは、蓮實がまさに批判するように「自分が何に犯され、何に捕われてゆくかを忘れながら「方法」を志向する楽天」(『詩学』505)を意味するのではないか。 なにより映画的な知覚の組織化によって忘却された演劇的な「空間」は、いまやインターネットを介してイメージが集積していく「テレ-空間」として回帰してきている。例えば渡邉大輔が『イメージの進行形』で論じている観客のミメーシス的体感を触媒に断片化された映像が増殖していく―例えばニコニコ動画の「踊ってみた」シリーズのように―「映像圏」の議論は、映画の外部にある日常的なコミュニケーションのネットワーク=「テレ-空間」に依拠するものだろう。回帰してきた演劇的な「テレ-空間」に土地の精霊はやってこないが、少なくとも「瞬間の運動」が絶えず更新されていくリニアな〈いま〉の位相が、コミュニケーションを介してイメージがシャッフルされ無根拠に書き換えられていく異種混交的な〈いま〉の位相へと変容したことを告げている。 蓮實重彦の功罪とは、まさに空間の記憶に束縛された演劇では不可能な「. No308 即決 450円 ウォッチ.

つとに知られるように、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で問題にするのは、複製技術メディアがドラスティックに変化させる知覚のパラダイムである。メディアはその時代固有の社会的条件に応じて、人間の知覚を組織していく。機械的な複製技術の登場は、芸術というメディアが生じさせる知覚のあり方を根本的に変えてしまう。その変化を端的に示すのが「アウラの消滅」である。 21世紀を迎えた昨今では3Dプリンターなどと言うものも出てきて複製技術をめぐる状況は本書が執筆された1930年代から飛躍的に進歩しているわけだが、機械的な複製技術がもたらすメディア論的な問題系はベンヤミンの本書を鏑矢とするものであり、いぜんとしてアクチュアリティを失ってはいない。そしてもちろん、機械的複製技術に依拠する営為である映画芸術が演劇に与えた計り知れない影響の爪痕はそこにくっきりと刻まれている。例えば、舞台俳優と映画俳優の違いについて。 公衆の前で演じられた演技の〈いま・ここ〉におけるアクチュアルな一回性は、カメラの前では時間的な一貫性も場所との親密な関係性も奪われて、ひとつのまとまりをもたない断片の集まりに破砕する。いわばドラマの始まりから終わりまでを主体的な意志/意図を持って役を生きる「俳優の身体」は疎外され、むしろブレッソンがラディカルに定式化したように主体的な意志/意図を抹殺し、撮影された事物と同じ資格でモンタージュ可能な「モデル」が映画の新たな記号論的現実を形成する。カメラを前にして「人間は初めて. 全8項目 代表作 「映画狂人、神出鬼没」の「とりあえずのベスト160(141)」 ・作家別ベストリスト133本 ※101本目 ・ベストでは名前のみ、他のページで作品についても言及した12本 ・“折れた”12本 ・不覚にも泣いたという9本 ・ベストに入れたかったと語るその他作品19本(「映画狂人シネマ辞典. 前段:蓮實重彦最新インタビューにおける『ミリオンダラー・ベイビー』批判に該当する部分への反論。 イーストウッドでいえば、『マディソン郡の橋』(1995)の子供たち、親たちにこういうことがあったんだというんで子供たちが集まるじゃないですか。. See full 蓮実 重彦 映画 list on school. 映画論=批評論 蓮實重彦を讃えて / ドミニク・パイーニ(訳=堀潤之) 回帰する蓮實重彦 / マルコ・ミューラー (訳=二宮大輔) 女こどもの闘争――蓮實重彦の映画批評における観客性について / 木下千花 蓮實重彦/ 峻厳な切断 / 舩橋淳. 映画「ツリー・オブ・ライフ」について蓮實重彦が群像の連載でめちゃくちゃ怒っている!「映画の存在を肯定したのは人類の犯した最大の誤算ではないかと思わせかねない」. ゴダールの旗のもと出会った 柴田駿さんを悼む 映画評論家・蓮實重彦 (/12/22). 実際、この映画はストローブ=ユイレをはじめとして賞賛するものが多く、初期ジョン・フォードの最高傑作として映画史に君臨しています。 さて、蓮實重彦が「 映画史上も っとも美しいシーン」と呼ぶシーンが、この映画にあります。.

「韓国映画cjゾーンの映画たち」12月開催 ニュース 蓮実重彦、坂本龍一が絶賛 メキシコの泉の神秘を追うドキュメンタリー「セノーテ」予告編. 蓮實重彦 はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から年まで第26代東京大学総長を務める。. 引用元:蓮實重彦「お葬式を見終わった後に伊丹さんが感想を求めたので最低な映画ですと正直に言いました伊丹さんとはそれ以降会ってません」 1: 名無し募集中。。。 /03/11(水) 23:43:04 ID:0. 著者 蓮実 重彦 (著) どうも人類はあまり20世紀がお好きではない? 音楽会のレパートリーも、展覧会・文学においても19世紀のものばかり.

黒沢清と蓮實重彦の『現代アメリカ映画談義』によると、イーストウッドは ストーリーと感情の山場をずらすということを意識的に行っている作家らしい。 ストーリーの山場と感情表現を一致させることは映画やドラマではセオリーだ。. てつさらです。 良い映画を見分けるための指針というのは幾つかあります。例えば、興行成績というのは、その指針の一つでしょう。お客さんがたくさん入っている映画ほど、良い映画だというわけです。 しかし、いわゆる「. 映画狂人日記 - 蓮実重彦のページをご覧の皆様へ HMV&BOOKS onlineは、本・CD・DVD・ブルーレイはもちろん、各種グッズやアクセサリーまで通販ができるオンラインショップです。 Pontaポイントもつかえて、お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!. 映画史に燦然と輝く“山”映画の最高峰 フレディ・m・ムーラー監督『山の焚火』。 蓮實重彦、是枝裕和監督などによる推薦コメントが到着! フレディ・M・ムーラー監督の特集上映「マウンテン・トリロジー」を2月22日(土)よりユーロスペースほか 全国.

ゴダール・ソシアリスム 4. 本日のお題は「溝口健二を/と愛すること―そして船は行く―」。まず蓮實重彦氏による前書きを以下に引用する。 溝口健二は、1952年のヴェネツィア国際映画祭に出品された『西鶴一代女』で国際的な舞台に登場し、ロッセリーニとジョン・フォードとともに国際賞を受賞、53年54年に. 映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史. 映画長話 - 蓮実重彦 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなの. 伊丹十三と蓮實重彦は、伊丹氏の手料理を食しながら、対談するほど仲が良かったのに、映画『お葬式』のあとは、絶縁状態だったようだ。その原因は不明であるが、蓮實重彦は『帰ってきた映画狂人』で、こう述べている。 324ページから引用 『お葬式』はちっとも面白くない。それで、試写. 人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った. 蓮實重彦、『スパイの妻』を絶賛関川宗英10月16日の朝日新聞で蓮實重彦が、『スパイの妻』(黒沢清)を絶賛していた。『スパイの妻』は、主人公聡子(蒼井優)とその夫の優作(高橋一生)、そして聡子の幼馴染、映画では憲兵隊の分隊長として登場する泰治(東出昌大)、この3人が. 映画『去年マリエンバートで 4kデジタル・リマスター版』に寄せられた著名人のコメントが発表された。 1961年に『ヴェネチア国際映画祭』金.

蓮実 重臣(はすみ しげおみ、1967年 12月7日 - 年 6月18日 )は、日本の作曲家、編曲家、ミュージシャン。東京外国語大学 外国語学部モンゴル語学科卒業。歌手としてGlenn Miyashiro名義を使用した。. ってそこまで言う?くらいの勢いだ。:14:29. 1979年には1月『蓮實重彦の映画の神話学』、2月『映像の詩学』、5月『シネマの記憶装置』、6月には山田宏一と共訳したフランソワ・トリュフォー『映画の夢 夢の批評』、10月『「私小説」を読む』、11月『表層批評宣言』、12月にも山田と共訳した. 数々の優れた監督を日本に紹介してきたフランス映画社元社長. 蓮実重彦という人の映画評論はどうなのでしょう? 傾聴に値しますか?教えてください。よろしくお願いします。 淀川長治、双葉十三郎両氏を喪った後、間違いなく世界で最もたくさん映画を見ている映画批評家は蓮実重彦氏であり、その映画に関する豊富な知識のみならず、高度な語学力と. 蓮実重彦といえば何しろ日本の最高学府 東京大学の総長だし、おフランスで学位をとったバリバリの学者さんだから、彼の映画評論にはドゥルーズだのデリダだの、わけのわからない哲学者の名前がゴロゴロしてる。そんな難解なイメージがあるようです。.

映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史 対談の内容自体は、自分は蓮実重彦の映画評論を結構読んでる所為もあって、ことさら新しい見解はなかった。. 。映画は20世紀になって人類が初めて手にした未知の資産。. ユリイカ 年9月号 総特集=濱口竜介 ―『passion』『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』・・・映画監督という営為― 濱口竜介, 蓮實重彦 他 | /8/27. 刑事ベラミー 2. 年以降の映画で蓮實重彦が徹底的に批判した映画(ツリー・オブ・ライフ以外)とベタ褒めした映画を教えて下さい。内容もお願いします。 自分が読んだことある著作の中ではラース・フォン・トリアーを徹底的に批判してましたね。文面については覚えている範囲になりますが、『ドッグ.

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